魚籃観世音菩薩
(ぎょらんかんぜおんぼさつ)
縁起
当寺に伝えられている「魚籃観世音菩薩御縁起」に記されてある御縁起を簡潔に記します。
御本尊の魚籃観世音菩薩は、昔、中国から伝来された奇特な御霊像です。木像で御身長は六寸(18cm)あまりです。この世にお出ましになられたのは、中国の唐の玄宗の御代(806~824年)です。およそ1200年以上前になります。その頃、唐の金沙灘という未だ仏教の信仰が行われていなかった地方に、ひとりの美しい乙女が、竹籠に魚を入れて魚を商って歩きました。その地方のたくさんの方々が「嫁に来てくれ」と望みました。これにたいして乙女は「私は幼い頃から仏の教えを信じ、尊んでおります。もしも仏さまの教えを信じてくださる方のお家ならば」「毎日普門品を読んでくださるお家ならば」というように次第に範囲を狭めて、最後には「三日間で法華経一部八巻を読誦できるようになったお方の許へならば」ということになりました。それを「馬郎」という若者だけが見事に成し遂げました。しかし、いよいよ嫁入りという日の朝、乙女は急死してしまいました。一同が嘆き悲しみながら野辺の送りをすませ、塚に葬りました。ところが数日経ったある日、一人の老僧が現れて、一連の話を聞き、村人に告げました。「この乙女こそは観音さまがこの地に仏法をお広めくださる為の、仮りの御姿なのじゃ。埋めた棺の中を見なさるがよい」と。この教えによって棺の蓋を開けてみると、中の御骨が一つに連なり、金色に輝いているのを見て、人びとは、初めてあの乙女が観音さまの御化身であることを知りました。そして、乙女の姿を刻んで長らく「馬郎」の家にまつりました。後に馬郎の子孫がこの尊像を奉持して、長崎へ来た時に当寺の開山称譽上人の師僧に当たる、法譽上人に帰依して、その尊像を寄進して世に広めてくださるように願いました。その後、当山の開山称譽上人の師僧に当たる法譽上人は、御尊像を豊前の中津に魚籃院を建て奉安しましたが、御化益を広く世に伝えようと思い立てられ、御尊像を江戸に移し、寛永七年(1630年)庚午(かのえうま)の年に江戸の三田の地(浄土宗 願海寺境内)に小さい庵を作っておまつりいたしました。その後、法譽上人のお弟子の称譽上人が承慶元年(1652年)徳川四代将軍家綱が将軍になった年に、現在の地に観音堂を建てて、三田山魚籃寺を創建して永らく当地に御安置し、現在に至っております。
御姿
魚籃観音さまは御頭髪を唐様の髷(まげ)を結んだ美しい乙女が右の御手に魚を入れた竹籠をお提げるになり、左の御手に裳裾(もすそ)を少しお引上げていらっしゃる御姿です。
左の御手で裾を少し引き上げておいでになるのは、その衣の下に金の瓔珞(ようらく)を現して、観音さまの御化身であることをお示しになっておいでになるのです。
乙女の御姿をした仏様は大変めずらしく、これは観音経の普門品の中に「應以婦女身得度者 即現婦女身而為説法」(まさに婦女身をもって得度すべきものには、即ち婦女身を現じて説法す)とある、その御姿なのです。
御利益
魚籃観音の「籃」(らん)とは、魚を入れる竹籠という意味です。魚を入れた竹籠をお提げておいでになるお姿から、古くから大漁祈願、魚貝類供養、海上安全、商売繁盛、また、旅行安全、交通安全を御祈願なさる方も少なくありません。また、美しい乙女のお姿ですから、女性の方々から深く広い帰依を受けております。
「馬郎」が幾多の難関を突破したことから、受験合格祈願としても参詣頂いております。
また、本堂には、魚籃観音さまを念じて難を逃れた時のもの、海難時にお救いくださった逸話の絵馬などがかかげられております。
御詠歌
身をわけて
救う乙女の魚籃(うおかご)に
誓いの海の深きをぞ知る